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平林が企業家としてスタートしたのは、つい5〜6年前のこと。実は、30年近くもの間、個人店の店主という経歴を持つ。「お客様が“また来たい”とおっしゃってくださるようなお店にしたい」。これは、店主時代も、社長になっても、変わらず持ち続けている精神だ。チェーン経営になった今でも、個人店の持つ<手造り>の魅力を損なわず、たくさんのお客様に満足していただきたい。そのために、わたしたちがお客様にしてあげられることは何だろうか・・・。この平林のあくなき追求が、三光マーケティングフーズを誕生させていったのだ。
そもそも父方は、江戸時代から続く東京・大森の乾物屋。そんな父の背を見て育った彼は、幼少の頃から「いずれは商売で成功したい」と思っていた。商売の基礎を学ぶために経営学科へ入ったものの、時は大学紛争のまっただ中。ろくに授業も受けず、数々の飲食店でアルバイト三昧の日々を過ごす。そんなある日、銀座でマクドナルド日本一号店の開店場面を見てしまう。オシャレな人々でにぎわっている店内を見て「いつかこれに負けない外食チェーンを経営したい!」と、平林青年は固く胸に誓ったのだった。
25歳の時、アルバイト時代に出会って結婚した登志子夫人とともに、初めての店を開業。JR神田駅ガード下の5坪10席という小さな定食屋だった。実家の屋号の「三光」をとって「三光亭」と命名。夫婦ふたりで朝6時には店に入り、終電で帰るという、超多忙な生活が始まった。一日の売り上げは3〜4万円、それでも二人が生活するには十分な額だが、あくまでもチェーン展開にこだわった彼は、1年たらずで思い切って牛丼屋に業態変更することに。
牛丼屋は繁盛しながらも、店舗数の伸びがいまいち。「常に進化できて、発展できる業態とは何だろう?」平林は悩んだ末にひらめいた。「そうだ! 居酒屋だ」。思い立ったらすぐ行動する性格の彼は、1984年、渋谷に居酒屋「だいこんの花」を開店。当時は、男性客がメイン層だった居酒屋業界に、女性も入れる明るいイメージがぴたりと当たり、お店は連日大繁盛に。
経営が軌道に乗りだした90年代初頭。しかし、時代はバブル経済の終焉へ。多くの企業がそうであったように、平林にも暗雲がさしかかる。「このままでは危ない」。経営の再建、人件費や材料の見直し・・・またもや、寝る間もなく働く日々が平林夫妻を襲うことになる。お店づくりの見直しで、頭を抱えていたある日、「フラットな造作で、使い勝手が悪いんですよね」とお客様から声があがった。「そういえば、そうだ。今のお店の間取りだと、どうしても団体のお客様が中心になってしまうな。」スペースをとる個室は坪当たりの売上高が下がるため、他の居酒屋では敬遠されてきたのだが、「二人客をもっと大事にしたい」と思う平林の優しさが、とある奇抜なアイディアで実を結ぶことになる。そのヒントはなんと、カラオケボックス。他人に干渉されないプライベート空間がカラオケボックスの人気の秘密と気づいた平林は、大胆にも居酒屋に個室システムを導入。そして、1998年、「東方見聞録」全面リニューアルオープン、三光フーズの新時代の幕が開いたのだ。
若者向けの大型の空間から、クオリティの高い落ち着ける大人の空間へ。その後の三光マーケティングフーズの勢いは留まることがなく、炭火串焼のお店「東方見聞録」の店舗数拡大に続き、女性客をターゲットとしたヘルシーな豆冨料理が中心の「月の雫」ブランドも誕生。そんな破竹の勢いの中、平林社長が常に社員にいいつづけていることが、これ。「常に、お客様第一主義でいること。お客様に満足していただくために、お客様の立場にたって、不足しているものが何なのかを常に考え、他店で喜ばれているサービスが何なのかを常にリサーチし改善することが、企業努力である」。技や心を大切にした手作りの料理を求めているお客様を一番に考えたいからこそ、店主であったときの精神を忘れずにいたい。「お客様の考えを軸に、工夫を凝らす。これは、大手も個人店も関係なく、店主の熱意なのです」。お店づくりが高じて店舗用のインテリアを骨董市で探し求めていたら、いつのまにか骨董品蒐集が趣味になってしまっていた。そんな平林の一店主としての熱意が、三光マーケティングフーズに流れているのだ。
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